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名古屋高等裁判所 昭和33年(う)535号 判決 1961年1月24日

被告人 沢野敏郎 外二名

主文

原判決を破棄する。

被告人等はいずれも無罪

理由

弁護人等の控訴趣意第一点の事実誤認の論旨について、

所論は要するに、原判決は本件水難事故の原因としてかなり強い異常な潮の流のあつたことを認めてはいるが、その異常流について生徒の入水前からあつた流で、水泳場内において立つている者が押し流されるというまでにはいたらない程度のものと認定しているけれども、本件事故の原因となつた異常流は生徒が入水してから二、三分後に女子水泳場を襲い百余名の女生徒を一挙に溺れさせたきわめて強い流であるから、原判決は異常流の始期及びその程度について判決に影響を及ぼすことの明な事実の誤認をしているというのである。

よつて記録を精査するに、そもそも本件水難事故は津市橋北中学校の夏期水泳訓練中の惨事であるが、その訓練は同市教育長の通牒にしたがい正課の授業として行われたものであつて、生徒も職員も支障なき限り原則として全員参加する建前で、昭和三十年七月十八日より同月二十八日(雨天の一日を除く)までの十日間津市中河原地先の通称文化村海岸で実施され、同海岸は同校がかねてから水泳訓練を行いきたつた安濃川河口から南方に拡がる遠浅の海で、安濃川寄り海底にはいわゆる澪(みお)と称する帯状の深みもあるが、これまで格別の事故もなく一般には水泳に好適の場所として知られ、訓練開始の七月十八日から同月二十七日までのはじめの九日間は南北の渚の線で大約六十米、渚より東方沖に向けて水深一米前後までを標準としてとつた三、四十米の矩形の地域を劃して水泳場を設定し、これを南北に区分して、当初の二日間は男子を北側、女子を南側にいれたが、その後は男、女生徒の場所をいれかえ使用せしめていたものであつて、同水泳場の南側には養正小学校、北側には南立誠小学校の水泳場が設置されていた。しかして二十八日の訓練最終日には生徒の水泳能力のテストが行われる予定になつていたので、被告人柴田は三年生の水泳部員の補助のもとに、一般生徒の同海岸へ来着する前に水泳場の設定に当つたのであるが、当日は右養正、南立誠両校の訓練が行われなかつたため、南北へ前日までより各二十五米宛拡げて百十米幅とし、渚から東方沖側へは、最深部で一米足らずを標準に渚より四十一米位にとり、かくして区劃された矩形状の水泳場の沖側境界線を示すには四本の標示竿をもちい、その北半分が女子水泳場にあてられた。この女子水泳場の北端は安濃川河口南岸から南約二百九十五米の位置にあり、またもつとも近い澪の縁辺までの距離は約三十米であつた。この日は快晴、風波なく水泳場設定時(午前十時十分前頃)は小潮の日のうちでも干満の差のもつとも少い日の七分満ち前後の潮工合の時にあたつており、満ち潮の流れとは異つた潮の流れがあつて、これに気付いて矢部教諭に告げた水泳場設定にあたつた水泳部員もあつたけれども、水泳訓練に支障を来たすほどのものではないとして矢部教諭から女生徒二百名に対し入水の注意、ことに潮の流のあることを告げ点呼、準備体操を経て、テスト前の体ならしの意味で入水時間を十分間として午前十時頃一斉に入水したのであつた。しかるに入水後わずか、二、三分にして、突如女子生徒百名前後の者が異常な流のため水泳場の東北隅附近で一斉に身体の自由を失い溺れるにいたつたので、監視していた職員や三年生水泳部員が懸命にこれが救助にあたつたにもかかわらず、ついに三十六名にのぼる多数の女生徒の溺死者をだすというまことに痛しい未曽有の事件の発生をみるにいたつたものなることが窺われる。

そこでこの異常な流が果して原判決の認定しているように生徒の入水前からあつたところの、そして強いとはいつても立つている生徒を押し流すにはいたらぬ程度のものであつたかどうかについて考察してみよう。

よつて原判決挙示の各証拠及び原裁判所において取調べたすべての証拠の内容を仔細に検討し、当審における事実取調の結果を総合し、

ことに

(一)  本件水泳訓練に参加した生徒たちのうち、

(1)  男子水泳部員として溺れた女生徒の救助にあたつた

(イ)  原審証人那波進は水泳部員で五里位泳げるが、当日水泳場の沖竿四本のうちの一本を先生の指示で臍(当時身長一米六十糎)より少し上の深さに立てた。その時は流を感じなかつたが、それから女子水泳場の中央の陸で柴田先生の手伝としてテスト用紙の記入をしている時、何か悲鳴を聞き女子が浮きつ沈みつする様子を見て溺れていると思つて救けにいき、最初女子水泳場の中央より稍北のところから斜に、南西から北東へよぎるように海に入つていくと、乳の辺までの深さが急に深くなつて鼻の辺まできた。一人の女生徒を助け背のたつところまでつれてきて、それから二人目の救助に向つた時、急に潮の流がきつくなつてきてさざ波もたちとても泳ぎにくくなつた。二人目か三人目の女生徒を助けてから沖の方へ見にいくと、友人の上浜がコムラ返りを起し、そばに誰か浮袋をもつたのがいて、上浜はそれを借りて足をもんでいたが、北の方へ大分はやく流されていき、上浜は足がなおつて浮袋をもちながら戻ろうとしても流がきつく、なかなか戻れなかつたと証言しており、

(ロ)  原審証人川崎勝次は五里の免状をもち、事故当日水泳部員として標示竿を立てる手伝をした際すこし泳いでみたが、その時は流は感じなかつた。砂浜に戻つていると、皆が海にはいつてすぐ、それは二、三分か五分位後かと思うが、誰かの「溺れている」という声を聞き、柴田先生の命で水の中を走つていき、途中からクロールで北の境界線を少し外へ出た辺までいくと、六人位溺れていて、そのうち三人は浮袋につかまつているが、あとの三人はつかまる物もないようだつたから、まず一番近くの何ももつていない生徒をつかんで助けてやり、すぐあとから来た黒石や、柴田先生も助けていたが、その辺は背が立たなかつた。その後で捜索のため皆で手をつないで海の中を歩いた時、強い潮の流のあることに気づいたと証言しており、

(ハ)  原審証人黒石昇は五里の免状をもち、水泳部員として毎日標示竿を立てたり、監視をしたりして先生の手伝をしていたのであるが、標示竿は先生の指図により大体自分の臍(当時身長一米六十四糎)より少し下の深さに立てていたが、当日も沖竿をいつものような深さのところに立てたが、その時は流は感じなかつた。生徒が入水するとじきに女生徒の悲鳴を聞いて、柴田先生と女子水泳場の東北隅の標示竿の辺へ救けにいつたが、そこは、自分の胸の辺の深さであつた。二人の女生徒は浮袋につかまつてはいたが溺れそうになつているので、そのうちの一人をつかみ救けようとすると、もう一人の女生徒もその子につかまり結局数珠つなぎのようになつて二人を救けた。

それからすぐまた女生徒を二人その附近で助けたが、その時は自分の背もたたず、流がきつく泳ぎにくかつたと証言しており、

(2)  本件水泳訓練に参加した女生徒のうち

(イ)  原審証人竹内房子は事故当日同じグループの横山、本間、林の三人と手をつないで海へ入り、横山がほんの少し泳げるので、女子水泳場の東南隅附近の深さは腰(実測一米)まで位のところで南から北へ、北から南へと泳いで、いつたりきたりするのをみんなが見ていると、五分もたたないうちに水が急に口の辺(実測一米四十五糎)まできて、足の裏の砂がすうと動くように感じ、その辺にいた本間が流されたのかゴム帽子が北の方へ流れていくのを見たが、林はどうなつたかわからない。驚いて泳ごうと思つたが足が浮いてしまい、北へ流されていくと、藤堂先生に二、三人の生徒がつかまつているのを認めたので、先生につかまつたが、どうしたのか離れてしまい、丁度その時浮袋が流れてきたけれども、それも手許まできてつかめないうちに北の方へ流れていつてしまい、その後沈んで覚がなくなり、気がついた時は人工呼吸をうけていたと証言しており、

(ロ)  原審証人福森健子は泳げない組にはいつていて、北村五十鈴の班に属し、足立みどり、坂東弘子外二、三名とグループをつくつていたが、海へ入るとき、北村五十鈴が「水中眼鏡をおいてくるから待つていて」といつたので、他のグループの人より少しおくれて海に入つた。グループの足立みどりが東北隅の標示竿のところにいたので、その方へ歩いたり、泳いだりしながらいくと、まだそこまでいきつかないうちに立とうとしたら背がたたず、頭が水にはいつてしまつても足がつかないので、びつくりして一生懸命に陸の方へ泳ぎ、溺れそうになつたが途中で若林先生に助けられてようやく陸にもどつたと証言しており、

(ハ)  原審証人中村美代子はどうにか水にうける程度で泳げない組に属し、同じグループの小林光子と、歩いたり泳ぐまねをしたりしながら女子水泳場のほぼ中央を沖側境界線に向つていた。色小旗のすぐ手前の辺で一寸泳ぐまねをして立とうとしたら急に水がふえ背が立たなくなり頭をこしてしまつた。助けてと言おうとしてもいえないので沈んでもがいていると、山口伊津子の浮袋が目についたので、つかまろうとしたがつき離されてしまつた。しかしそこへ男の生徒がきて助けられた。水が急にふえたのに気付くまでは潮の流については別段感じなかつたが、浮きつ沈みつもがいている時北へ流されていくように感じたので潮の流はあつたと思うと証言しており、

(ニ)  原審証人沼田博子は泳げない組に属し、女子水泳場の丁度真中の辺までいくと、もう腋の下まで水がきたのでこわくなつたが、米倉、吉村の二人がそばにいたから一緒に水の中で肩を沈めたり立つたりしていた。それからもう少し深い方へいこうといつて、二、三歩進むと、米倉がやめようというのですぐ元のところへ戻ると、何か騒いでいるようなので北の方をみると、十人位頭だけプカプカ浮いていて手をばたつかせているから泳いでいるようにも見えた。その時急に深くなつてきて、背がどうにか立つか立たん位になつたので、背のびしてピヨンピヨンとぶようにして岸へきたが、途中流で足をさらわれ倒れかかつたこともあつた。しかし両側にいた友達二人に手を引張つて貰つたので鼻から水を吸つただけで倒れはしなかつたと証言しており、

(ホ)  原審証人上本昌子は五十米位泳ぐことができたので泳げる組に属し、当日女子組の一番北側から海へ入つたが、仲のよい松本、三浦の二人と女子水泳場の沖側境界線の内側にそつて南の竿から北の竿まで泳いでみようということになつて、はじめ東南隅の標示竿の手前一米位のところへいくと、自分の胸位(実測一米十四糎)の深さでその時は流も感じなかつた。三人で北に向つて泳いでいき東北隅の標示竿の手前五米位のところで立とうとすると、深くて立てないので、西南に向つて泳いだが、進まないで北の境界線から少し北の方へ流された。それでもなんとかして東北隅の標示竿にとりつこうと思つて懸命に泳いでいると東先生がきて手を引いてもらつて助かつたがその時はもう力尽きて溺れかけていた。その附近で松本、三浦たち十人位が溺れかけていた。この日若林先生の泳げる組では死んだ生徒は一人もなかつたと証言しており、

(ヘ)  当審証人細川百百子は当時二、三十米泳げたので泳げる組に属していたが、同じグループの者三人位でまつすぐ小旗の辺までいくと、そこは乳の上あたりの深さであつた。そこまでは体をぬらしたり、かけたり、泳いだりしていつた。それから南へ向つて泳いだが、ちつとも進まなかつたので、北に向きをかえて泳ぐととても泳ぎやすかつたので泳いでいき、どの辺かはつきりわからないが、水泳場の中であろうと思うが、疲れて立とうとしたら深くて背が立たなかつたので必死になつて陸の方へ泳いだ。立とうとしたところの深さは手をあげても足りないくらいだつた。立てないで陸へ泳いだときは海岸に向つてまつすぐに泳いだが西北に流されてしまつたからほぼ南から北への流があつたことは確かであると証言しており、

(ト)  原審証人成子和代は十米位泳げるので若林先生の泳げる組にはいつていたが、同じグループの者五人で海にはいり、泳いだり、立つたりしながら、小旗の線を少し越え胸(実測一米十五糎)位の深さのところまでいつた。すると急に深くなつてきてあご(実測一米三十糎)位の深さになつてしまい、北の境界線の方に流されていつたけれども、三年生の男の水泳部員に助けてもらつたが気を失つてしまつた。自分は少しは泳げるのにこの日はほとんど泳ぐ間もなしにブクブク流されていつて溺れたと証言している。

以上のほか本件水泳訓練に参加した多数の生徒が原審及び当審において証言しており、その内容は一々これを摘示するいとまもないが、要するに、

一、急に水かさが増したといゝ

二、にわかに強い流れが来たといゝ

三、足もとの砂がえぐられるような感じがしたといゝ

四、さざ波がにわかに起つたといゝ

その表現こそ、区々にわかれているけれども、水位や潮流に急激な変化のあつたことをおもわせる証言をしている者が圧倒的多数を占めていること。

(二)  次に橋北中学校の職員で本件水泳訓練に参加した

(1)  原審証人山本実は二十八名の泳げない女生徒の組を担当し、その時は自ら先頭に立ち、生徒を女子水泳場の南の方のテスト用小旗の附近へつれていき、東南隅の標示竿のそばから西方へ十二、三米位のところまで歩きながら監視していると、南から三本目位の小旗の辺から女生徒の「先生溺れています」という叫び声を聞いたので、驚いてその方へ十米位とんでいこうとすると、臍位の深さだつたのが高いうねりのため顎の辺まで水がきて、後から突きだされるような感じをうけながら溺れていた生徒を助けたが、陸へいくにも足がさらわれそうで歩きにくかつたと証言しており

(2)  原審証人若林淀子はその時女生徒を引卒して海へ入り女子水泳場の東北隅の標示竿より南西十五米位の処に立ちどまると、深さは臍の辺(九十五糎位)であつたが、急に二十糎位もあるうねりがきたかと思うと二米位北にいた女生徒が手を出し何か自分を呼んでいるような格好をしたので、傍にいきその子をつかんだが、その時水は脇位(一米十六糎)になつていて、その子の両手を引張り後向きに陸の方へいこうとしたけれども、なかなか進めなかつた。うねりはわずかの間隔をおいて二回きたことはたしかであると証言しており

(3)  原審証人矢部博はその時女子水泳場の標示竿の線から二、三米でたところまでいくと、そこでもパンツの上のバンドがぬれないくらいの深さしかなかつたが、標示竿の辺で大森教諭が片手を肩の斜め上の方に挙げているので、不審に思いそちらへいこうとすると、北の方へいくほど歩きにくく両手で水をかいて歩いたが、標示竿の南方十五、六米の処で胸の深さになり、四、五名の女生徒が二十米位先きで浮袋につかまつている様子から流されていると直感し、急いでそこへいくと自分の顎位の深さになり後から押されるように前に浮き上るのを感じたと証言しており

(4)  原審証人中村寛はその時南の標示竿から沖の方へ二、三米でたところで陸の方を向いて監視していると、四分位で上陸の合図があり清水教諭が北の方へいくので何かあつたのではないかと思い、最初は歩き後は泳いで女子水泳場の北限の標示竿の方へいくと、浮袋につかまつたまゝ気を失つたようになつている女生徒を発見してその子を助けたが、そこの深さは水が鼻の辺まであつたから一米五十糎位であつた。その子を浮袋にのせて陸の方へ泳いだときはかなりの水の抵抗をうけ泳ぎにくかつたと証言している。

これら教員の証言内容もその表現こそ区々にわかれているけれども、いずれも生徒の証言と同様に水位ないし潮の流に急な変化のあつたことをしめしている。

(三)  本件水難事故の際、舟で溺れた女生徒の救助に協力した四名の漁師のうち、

(1)  原審証人鈴木鎌一は舟で助けにいくと、南から北への相当速い流があり、最初の六人を助けあげる時は黒宮が艪を漕ぎ、伊藤が棹で突張つていても舟はじつととまつておれず、流されていくので錨をおろしたが、そのつぎの四人の生徒を助けあげた時はもう流は弱まつていたので、錨はおろさなかつた。その間、五分か十分位しかたつていないと思うと証言しており

(2)  原審証人黒宮弥一は急を聞いて現場へ駈けつけたが、南から北への流が強く水も濁つており、泳いでは助けられないと思つて陸へもどつて舟で助けにいつたが、稀にみる潮の流で普通なら棹でとまるが、どうしても流がきつくてとまらないので、錨をおろしたが、あのような上り潮はながい漁師生活を通じて二、三度しか経験していないと証言しており、

(3)  原審証人伊藤勇はその時の潮は漁師仲間で上り潮という癖のあるもので、水が濁つていたから、水面だけでなく底の方も水が速く流れていたようにおもわれた。こういう潮のときは海面に段がついて押してくるので、浅いところならいいが、少し深い処では立つていても身体が斜になり、泳げない者なら沈んでしまう。このようなきつい上り潮は岸の方では昭和二十九年三月頃と今回の二回だけの経験しかないと証言しており、

いずれも異口同音に漁師仲間がいう上り潮(単なる北流の意味ではなく)というはやい異常な流がきたことを述べておる。

(四)  本件水難事故のあつた文化村海岸の北方のこれとほど遠からぬ白塚海岸の附近海面についても、当審証人笹原範子(旧姓酒井)は昭和三十年七月頃は朝陽中学校に教諭として勤務していたが、その夏の水泳訓練を文化村海岸から一里北位の河芸町影重海岸で実施した。七月二十八日は訓練の最終日で、記録をとることになつており午前九時二十分頃に第一回の入水をやりそれから記録会にうつつた。陸上で監視をしていると、丁度遠方に舟が通るときその跡にできるような、長い白い線のようなものが一本あるのに気づいた。そこでそばにいた中条教諭に舟が沖を通つたかと聞くと見なかつたという返事であつた。その白い線は南端が海岸に近く、北端が海岸にやゝ遠く斜になつて次第に近ずいてきたので、笛を吹いて生徒に陸へ上れという合図をした。その時は別に危険を感じたというわけではないが、何かしらと不思議におもい予定の時刻よりは十分位前であつたけれども、記録会をはやく打ち切つたのであつた。陸にあがつた生徒たちは今日は南に流があつたといつていたと証言しておること、

(五)  本件事故当日午前九時頃伊勢湾口鳥羽附近の海面についても、

(1)  当審証人小崎こなみは小学校卒業以来三十数年間海女をしている者であるが、七月二十八日午前九時頃鳥羽附近の菅崎の沖合でてん草をとり桶がほぼ一杯になつたころ、急に北から南へ向う速い潮の流がでてきて、危くなつたのでびつくりしてしまい、せつかく採つたてん草も全部棄ててしまい、桶にすがつてやつと流をのりこえ命からがら陸へにげ戻つたが、余りに恐いめにあつたのでその時ばかりはただもう泣けて泣けてしかたがなく、もうこれでふつつり海女はやめようとまで思つた。その日夕方ラジオのニユースで橋北中学の事故のあつたことを聞いておもわずもらい泣きしたと証言しており、

(2)  当審証人小崎くすは小学校卒業後四十数年間も海女をしている者であるが、七月二十八日の午前九時頃鳥羽附近の菅崎東海岸の沖合二、三町の辺でてん草をとり桶に六分目くらい採つたとおもつたころ、急に潮の流がはやくなつてきて、そのひどい流は永い海女の生活のうちにも経験したことがないくらいのものであつた。夫の舟に戻ろうとしたが流の上の方にいたのでどうしてもそこへいけずようやく近くにいた松井吉五郎の舟に助けてもらつた。その日は仲間でいう口あけ(漁業組合でその日から海女にてん草を採ることが一斉に許されること)だから組合ではいつも天気のよいぜつたい安全な日を選んできめるならわしになつているのにこんなことがあつたし、丁度その日ラジオのニユースを聞いた夫から橋北中学の事故のあつたことを聞いたので、その日のつよい潮の流のことをおもい浮かべ、あれでは子供たちが水にのまれるのも無理がないとおもつたと証言しており、

いずれも午前九時過頃に潮の流に急激な変化のあつたことを認めていること。

叙上の各証拠を総合すると、本件事故当日は少くとも午前十時十分前頃水泳部員が水泳場を設定した頃には潮の満ちひきによる流とはちがつた北流があつたので矢部教諭は女生徒全部に対し北流のあることを告げ、女生徒約二百名は午前十時頃男女両水泳場の中央寄りのところから扇状に散開するような形で一斉に海へ入り、沖側境界線の近くに集る者が多かつたのであるが、生徒の入水後二、三分した頃沖合から突然大きなうねりが女子水泳場附近一帯に押しよせそれとともににわかに強い北流がでてきて、このうねりのために女子水泳場は沖側の境界線附近でさえ、一米足らずの水深しかなかつたのに、たちまち一米四、五十糎位に水位を増したのであつた。ところが女生徒たちの大部分は何分水泳訓練の最終日である当日にいたつても、まだ、全然泳げない者や、頭を水につけてわずかに進むとか、五米ないし十米をやつと泳げるという程度の水に対する抵抗力のまことに弱い者で占められていたので、女生徒の過半数たる百名余がその急激な水位の上昇に狼狽して身体の自由を失つたところへ、にわかに強くなつた北流のために押し流され、女子水泳場の東北隅の内外附近一帯で一斉に溺れるにいたつたものと認められる。したがつて、本件事故の原因はこの大きなうねりとともに多数の女生徒を押し流した異常な流にあるものというべきである。原審がこの点について(イ)突如東方沖合から海水が海面に段をなして押しよせてきたとか、(ロ)急に水嵩が増したと証言した原審証人は前記の如くとうてい二、三にとどまらないのにかかわらず、(イ)の証言については証人が突発的事故に狼狽、幻惑されて錯覚をしたもの、(ロ)の証言については証人が流されて知らぬ間に深みに移つていたものとしてこれらの証言を排斥したのは、この異常流をともなつた大きなうねりの来た事実を看過したものというほかなくまた本件事故の原因たるこの異常流についても原裁判所の認定は正鵠を得ていないものといわなければならぬ。たゞこのような異常な流がどうして発生したのかという点に関する科学的な解明は当裁判所のもとよりよくするところではないが、この点について

(1)  当審鑑定人南日俊夫はさきに本件水難事故を研究テーマとしてとりあげ、日本海洋学雑誌に「津市橋北中学校女生徒水死事件調査報告」と題する論文にその所見を発表したのであるが、これによると本件事故のあつた七月二十八日午前十時五分頃はその潮位からいえば、三ないし四糎の北流が期待されるにすぎないが、同月二十五、六日頃から南方海上に台風十三号が発生して北上しつつあつて、その移動速度、吹送時間、発生域における波高、週期などを天気図を比照して計算してみると、本件事故当日午前十時頃には右台風による週期十二、三秒、波高一・六米のうねりが本州沿岸に到達しうるし、このうねりは津海岸では伊勢湾口の向きや等深線などからみて週期十二秒、波高二十八糎位のうねりとなり、水深一ないし一・五米のところでは、それが波長四十米前後となり、かつ秒速二十糎の週期的流れを生ずる。一方このうねりがいわゆる沿岸流(long shore current)を生ずると、秒速二十ないし二十八糎の流となり、これに正常な潮流の速さを加えると、秒速二十三ないし三十二糎の流となりうるし、さらに週期十二秒、秒速二十糎の流が重なると、瞬間的には秒速五十糎にも達しうるといわれている。

これに対しまた

(2)  当審鑑定人宇田道隆は沿岸流というのは長い直線海岸のところに起きるものといわれているが、もしそうだとすると、津海岸のような伊勢湾の中の海岸線の出入りの多いところに起きた異常流が果して沿岸流の観念で説明しうるか否かははなはだ疑問であつて、むしろ台風の影響などによつて外海に生じたうねりにともない湾内に発生する副振動(secondary andurations)の現象ではないかとおもわれるとされるのである。

しかしながら、右の沿岸流ないし副振動の理論によるも、本件にみられるような突発的なうねりとともに押しよせた異常流を説明することは至難ではなかろうか。そこで、ここに注目すべきことは、本件事故当日津海岸沖合を小型船舶で通過した当審証人水谷栄九郎がつぎのような事実を証言していることである。すなわち水谷栄九郎は四十七、八年間も海上生活を営み、いまなお小型船で伊勢湾内を毎日のように航行している者であつて、事故当日も宝栄丸という四十五屯の舟を操縦して午前九時頃三重県影重海岸と知多半島の野間を結ぶ線の中央よりやゝ東寄り(本件事故現場から約十四浬の地点)を南進していると、その船の西方約一哩を北進する一万屯級の貨物船とすれちがい、その二十分後にまた同一方向に向う四千屯級の貨物船とすれちがつたが、両船とも白波を蹴つて全速力で進行し、一哩位も離れていたのに蹴波のため同人の船は左右に大きく揺れて舵をとられたが、船の向きをその大型船舶と直角の位置に保つことによつてようやく顛覆を免れたけれども、その蹴波は二米ちかくにも達していた。その日夕刻下船して本件事故があつたことを知つた。この程度の蹴波が十四浬離れた事故現場へ達するのは天候によつて異るから一概にもいえないが、一時間か一時間二十分位後に一尺二、三寸のうねりとなつて津海岸にいくとおもうが、そうなると泳げない子供なら、たちまち将棋倒しのように倒され、お互に助かりたいため夢中になつてしがみつきあい、倒れなかつた者や、助けようとした者までしがみつかれて、大勢の子供が死ぬということもあろうとおもつたと証言しており、右証言と名古屋港管理組合作成の「出入港船舶の調査」と題する書面を対比すると、右二隻の大型船というのは午前十一時三十分名古屋港に入港したパトロクラス号(一万百八屯)と、午前十一時四十五分同港に入港した那智丸(四千六百五十五屯)であつたことが窺われるが、このような津海岸の沖合を丁度文化村海岸における本件生徒の入水直後に影響を与えうるような時刻に相ついで二隻の大型船舶が全速で航行したという事実と前掲各証人が証言しているところの突如東方沖合から海水が段をなして押しよせてきたとか、急に水嵩が増したという事実と、さらに前認定のようににわかに強い流がでてきたが、その流も鈴木謙一等が救助作業をしている間に次第に弱まつたという事実を総合し当審鑑定人南日俊夫、同宇田道隆の各鑑定の結果を加味参酌するときは、津海岸沖合を全速で北上した前記二隻の大型船によつて起きた二米ちかい蹴波は進行するにつれて大きなうねりと化し、それが沖合から浅瀬に近ずくにしたがい、沖合では表面波であつたものが、海底にまで運動の及ぶ長波の性質を帯びるようになり、うねりの速さは水深によつて左右され、深いところははやく進むが浅いところは遅くなる性質を有するため、東南方沖合からかなり大きな角度をもつて進行してきたうねりもこの作用によつて接岸する直前には海岸線と並行して北流する潮の流を生じ、一方文化村海岸にはたまたま同月二十五日頃から南方海上に発生していた十三号台風の影響による弱い北流が生徒の入水前からあつて、その流こそ前記沿岸流か、副振動に因るものと憶測されるのであるが、そのいずれであるかはともかくとして、かような北流が入水前からあつたところへ、入水直後、女子水泳場の沖合境界線附近の最深部でさえ一米足らずであつたのが一米四、五十糎にもなるような大きなうねりとともに前記北流が来襲しその北流が入水前からあつたところの右北流と合体してたちまちさらに強い異常流を形成するにいたつたものではないかとおもわれる。この点に関し原判決はもし沖合からうねりが段をなして押しよせてきたという事実があるならば、水泳中の女生徒は陸寄りの方向に押し流されるはずであるのに、多数の女生徒の溺れたのは沖寄りの水泳場の東北隅であるといつているけれども、うねりそのものは波動であるから、流とはちがい水泳中の生徒を陸寄りに押し流すはずのないことはいうまでもない。原審はかようにうねりの本質を誤解してうねりのあつた事実を否定し、うねりの接岸のとき生ずることのある流をも看過したものといわねばならぬ。ただこのようにみた場合女子水泳場に隣接していた男子水泳場にいた男生徒たちのうちにはこのようなうねりや異常な流を意識しなかつた者がかなり多数あつたという事実をどうみるかという点についてはなお若干の疑がないではないが、生徒の大部分が泳げない女生徒とちがい、水に対する抵抗力の十分にできているこれらの男生徒は、こうしたうねりや強い流にもあまり影響されず、とくにこれを意識しなかつたとしても敢て怪しむには足りないであろう。つまり、こゝで大きなうねりといい、強い流といつても、それはもちろん海洋学、ないし気象学でいうような意味あいではなく、そうした意味においては南日、宇田両鑑定人もいつているように前記蹴波は津海岸に影響しないであろうが、うねりの大きさや流の強さを本件事故の原因としてみる場合には、水に対する抵抗力のきわめて弱い女生徒を基準にして相対的に理解すべきものとおもわれるし、また文化村河岸の南方の突堤が男子水泳場側にあり、安濃川やその河口の澪筋が女子水泳場側にあることや、その他の地形の差異からする局部的な現象の相違ということも考えられないことはない。

かように本件水難事故の原因は生徒の入水直後に女子水泳場を襲つたうねりにともなつた異常流にあつたものと認められるから、原審はこの点において叙上の如く事実を誤認したものというほかなく、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明であるから論旨は理由あるものといわねばならぬ。

よつて本件各控訴は爾余の論旨について判断をもちいるまでもなく、原判決はとうてい破棄を免れないので、刑事訴訟法第三百八十二条、第三百九十六条に則り全部これを破棄するが、本件は原裁判所が取調べた証拠により直ちに判決するに適するので、同法第四百条但書に従い、当裁判所において判決する。

本件公訴事実のうち被告人沢野が津市橋北中学校の校長という学校教育の中心的責任者たる地位において所属職員を監督統卒し、被告人落合が教頭すなわち同校総務兼教務部主任として校長を補佐する任務を担当し、被告人柴田が体育主任として体育関係の校務を分掌していたことは明であるから、橋北中学校の叙上の水難事故について被告人等に検察官所論のような具体的な注意義務の違背があつたか否かを検討してみよう。

(一)  水泳場の設置場所に関する注意義務の違背について、

なるほど女子水泳場が設置されたのは津市を貫流する安濃川の河口に近く、しかもその河口寄り海底に澪(みお)と称する深みがあつたことは検察官の所論のとおりである。すなわち女子水泳場の北限は安濃川右岸から南方約三百米位の地点で、みおは河口右岸の南方二百米余りのところから東沖合に湾曲し、女子水泳場の北限とは三十米位に接近している箇所もあつて、その深さは干潮時にも水溜り位の海水をたたえ、満潮時になると、二米前後の水深に達する程度のものであることが認められる。しかして河口やみお筋は潮の流に変化が多く危険であることは周知の事実であるから、たとえ河口との距離や澪の深さが叙上の如き程度のものであつたにしても、このような場所に水泳能力に乏しい女子生徒の水泳場を設定したことが当を得たものであつたか否かについては疑問がないではないが、水泳場の設定された文化村海岸というのは本件の橋北中学校のみならず他の多くの小中学校が例年水泳訓練を行いきたつた遠浅の海で、これまで格別事故のあつたこともなく、また一般に水泳に好適の場所として知られている海岸であるし、市教育委員会も正課として行われた本件水泳訓練の実施場所としてここを用いることを許可していたことなどから考えてみると、本件女子水泳場の設定が前述の如き意味あいにおいて適当でない点があつたとしても、いまだもつて被告人等が女子水泳場の設定についてその職務上通常用うべき注意義務を懈怠したものとは認めがない。

(二)  人員を確認する義務の違背について、

本件水泳訓練における人員確認はホームルームにおける出席簿にはよらないで、水泳能力を標準にして分けられた水泳班ごとに出席簿を作成し、(一)学校出発時、(二)第一回入水前、(三)第一回入水後、(四)第二回入水前、(五)第二回入水後、(六)海岸出発時、(七)学校到着時の七回にわたつて担任職員、班長、組長が呼名及び人員点呼の方法により各班毎に人員確認を確実に励行していたことが認められる。たゞ総人員の把握者がきめられていなかつたので、本件事故の突発とともに教職員をはじめ生徒たち一同の周章狼狽のため、総人員の確認に非常なる混乱があつたことは窺われるけれども、元来人員は班毎に指導者によつて把握されている以上、総人員の把握者を予め決めておくことは必ずしも必要ではないから本件のような余りにも大きな突発的事故による混乱のさ中において入水前後の総人員の把握が容易にできなかつたとしても、まことにやむを得ないことであつて、それだからといつて被告人等の所為につき通常用うべき注意義務の懈怠があつたものとは認めがたい。

(三)  生徒の水泳場からの脱出防止等に関する監視の注意義務の違背について、

男、女両水泳場の沖側境界線に立てられた標識竿がわずかに四本であつたことや監視台や監視船が設けてなかつたことは所論のとおりであるけれども、本件水泳訓練はその実施計画によると参加生徒数約六百六十名をまず男女別にし、水泳能力を基準に編成した男子七組、女子十組計十七組とし、教諭十六名、事務職員一名に各一組を担当して生徒の指導監督にあたらせ、このほか陸上勤務者として教諭一名を配置して陸上からの監視救護等の任務につかしめ、さらに被告人落合、同柴田の両名は生徒全般に対する指導監督にあたり、同沢野は若林淀子教諭の担当生徒数が多いためこれを補助することになつていて、本件事故当日もこの計画案どおり実施されていたのであつて、女子生徒に対する監視についてとくに不十分であつたと認むべき点は認められない。ただ本件事故において百名余の女生徒が溺れたのは前叙の如く女子水泳場の東北限を中心とした海面一帯であるから、溺れた者のうちには水泳場外にあつた者が多数あることは疑ないけれども、これらの生徒が場外にでたのは前記のように急激な水位の上昇と異常流のために場外へ押し流されたのであるから、標識竿の数とはもとより何の関係もないし、被告人等がその監視を怠り生徒の場外への脱出を看過していたものでもない。もつとも被告人落合が生徒の入水直前まで水泳場附近海浜にいながら、事故発生当時同所に居あわせなかつたことは明であるが、それは同被告人がすぐ近くの民家に預けてあつた救急箱をとりに行つていたためであつて、本件はその間のわずか三分間足らずの間の出来事であるから、これを目して同被告人の職務の懈怠と認むべきではない。

(四)  救助計画の策定に関する注意義務の違背について、

本件水泳訓練に救命具としては竹竿や浮袋以外にとくに用意されていなかつたことは検察官の所論のとおりであるが、本件水泳訓練は遠泳が行われる計画があつたわけでもなく、単に比較的狭いしかも最深部でさえわずか一米足らずの水泳場内において約二十名にも及ぶ教職員の監視のもとに行われたのであるから監視船はもちろん、救命具などもしかく絶対的に必要であつたともいえないから、これらの物が用意してなかつたからといつて、あながち被告人等にその職務の懈怠があつたとも認めがたい。元来これらの施設をする予算的措置は全く講ぜられていないのであるから、本件橋北中学に限らず、他の中小学校も例外なくかような施設をしていないことは明かであるし、又かような施設を用いなければならないと云ふことであればおそらく当時の予算主体の経理面から考え、中小学生徒の水泳訓練を正課として実施することは殆んど不可能に近いことであつたと考えられる。

(五)  その他の危険防止の万全を期する義務の違背について、

小中学校等における水泳未熟の年少者を対象とする集団的な水泳訓練については、これが指導にあたる教職員において危険防止の万全を期せねばならぬことは検察官の所論のとおりであるが、本件水難事故の原因が生徒の入水直後に起きた急激な水位の上昇と異常流にあることは前叙のとおりであつて、風波のない快晴のいわゆる海水浴日和にこのような事態の発生をみることはあまりにも稀有な現象であるから、通常人の注意力をもつてしてはとうていこれを予見しえないものといわねばならぬ。しかも学校としては予算や教職員の人的構成からする制約も免れないのであるから、このような稀有な事態に備えて万全を期することを求めるのは難きを強いることになるであろう。

これを要するに、本件水難事故は一つに前叙の如き急激な水位の上昇と異常流の発達という不可抗力に起因するものであつて、この事態に処した被告人等の所為につき検察官の所論のような過失を認むべき証拠が十分でないから、本件は刑事訴訟法第四百四条第三百三十六条に則り被告人等に対しいずれも無罪の言渡をなすべきものとする。

ただ最後に一言付言したいことは本件において、たとえそれが水の災禍とは云え、春秋に富む三十六名に及ぶ多数の女子生徒の尊い生命を一挙にして失うに至つたことはまことに悲惨の極である。多くの犠牲者の霊に対し深甚の弔意を表すると同時に、その父兄の心中もさこそと考え格別の同情を禁じ得ないのである。しかし乍らいまここで被告人等の刑事責任を追及することによつて犠牲者等の霊が瞑目されるものではなく、却つて水の恐しさにおびえつゝ慈愛に充ちた先生等の日頃の薫陶を慕いつゞけることができるであろうと考え只管その瞑福を祈る次第である。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 小林登一 成田薫 布谷憲治)

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